忘れもしない、イタリアの魚醤「コラトゥーラ・ディ・アリーチ」を初めて味見した日。
カタクチイワシと塩だけで作られた、琥珀色の液体。
ほんの少し口にして、わたしは言葉を失いました。
「魚醤なのに、臭みがない。」
ナンプラーのあの独特の香りも、しょっつるのクセも、ほとんど感じない。
ただ、澄んだ旨味だけが、すっと舌に広がる。
同じ「魚と塩」で作られているはずなのに、どうしてこんなに違うんだろう?
その疑問を入口に、魚醤の歴史をたどっていくと——
2000年前の古代ローマにまで遡る、東西の壮大な物語にたどり着きました。
今日は少し、魚醤のロマンに浸ってみませんか。
知ると、一本の魚醤が、ぐっと味わい深くなりますよ。
この記事でわかること
✔ コラトゥーラの「臭みのなさ」の正体
✔ 古代ローマには、4種類の魚醤があったこと
✔ 魚醤の「西の系譜」と「東の系譜」、設計思想の違い
すべては、古代ローマの「ガルム」から始まった
魚を塩で発酵させた調味料——魚醤の歴史は、とても古い。
なかでも有名なのが、古代ローマで愛されたガルム(garum)です。
ローマ人は、このガルムを、現代のわたしたちが醤油を使うように、
ありとあらゆる料理にかけて食べていました。
そして驚くべきことに、当時すでに、ガルムには等級と分類があったんです。
魚のどの部分を使うかによって、名前も、味も、値段も違った。
その分類を知ると、コラトゥーラの謎が、するすると解けていきます。
古代ローマの、4つの魚醤
古代ローマの魚醤は、大きく4種類に分かれていました。
① ガルム(garum)——標準の魚醤
小魚を丸ごと、あるいは内臓ごと発酵させたもの。いわば、標準的な魚醤です。
② ムリア(muria)——内臓を除いた、上品な魚醤
ここが重要です。内臓と頭を取り除いた魚を塩漬けにして、
にじみ出た液を集めたもの。内臓を除くことで、匂いが穏やかで、上品な味になりました。
③ アレック(allec)——搾ったあとの残りかす
ガルムを搾ったあとに残る、固形のペースト。庶民の食べ物でした。
④ ハイマティオン(haimation)——内臓と血だけの、濃厚な魚醤
内臓と血だけを使った、最も強く、黒い魚醤。漁の副産物でした。
お気づきでしょうか。
わたしが驚いた「臭みのないコラトゥーラ」は、②のムリアの末裔なんです。
2000年前から、「内臓を除けば、匂いが穏やかになる」ことを、
ローマ人はちゃんと知っていて、それを別の名前で呼んで区別していた。
これは、わたしにとって衝撃的な発見でした。
(※古代ローマの魚醤の分類については諸説あります。参考にした情報源は記事末尾に記載しています)
コラトゥーラの「臭みのなさ」の正体
ここまでくると、答えははっきりします。
コラトゥーラが、あれほど臭みのない理由。それは——
内臓と頭を、最初から取り除いているから。
現代のコラトゥーラ(イタリア・チェターラの伝統製法)は、こう作られます。
カタクチイワシの頭と内臓を、手作業で除去する。
それを塩と交互に木樽に詰め、重石をして、じっくり熟成させる。
樽の底からにじみ出た、澄んだ液を集める。これがコラトゥーラです。
魚の臭みや苦味の多くは、内臓から来ます。
その内臓を、最初から使わない。だから、純粋に身のタンパク質が分解された、
クリアな旨味だけが残るんです。
これは「引き算」の発想。
よけいなものを削ぎ落として、澄んだ旨味だけを取り出す。
コラトゥーラの美しさは、この「引き算の美学」にあるんです。
一方、日本の魚醤は「足し算」だった
さて、ここからが、この物語のいちばん面白いところです。
同じ「魚と塩」の魚醤でも、日本は、まったく逆の道を歩んできました。
日本の三大魚醤——秋田のしょっつる、能登のいしる・いしり。
これらは、むしろ内臓を積極的に使うんです。
たとえば、能登のいしり(イカの魚醤)は、イカの内臓(ゴロ)が主原料。
いしる(イワシの魚醤)も、身だけでなく、骨も内臓も丸ごと使います。
これは、「骨や内臓を無駄にしない」という、日本の生活の知恵から生まれた設計。
内臓のもつ濃厚な旨味も、複雑なコクも、ぜんぶ活かす。
コラトゥーラが「引き算」なら、日本の魚醤は「足し算」。
内臓を除いてクリーンにするのではなく、内臓ごと使って、濃く、深くする。
同じ「魚+塩」から始まりながら、
西は引き算、東は足し算。
設計思想が、まるで逆なんです。
これを知ったとき、わたしは魚醤の奥深さに、すっかり魅了されてしまいました。
→自家製魚醤、どの魚から始める?7魚種から選ぶこだわりの1本
火入れも、東西で違う
設計思想の違いは、仕上げの火入れにも表れます。
日本の魚醤は、ほぼすべて火入れ(加熱)します。
発酵を止め、殺菌し、品質を安定させてから瓶詰めする。
だから、日本の魚醤は「加熱調理に使う、安定した調味料」として完成しています。
一方、コラトゥーラは、火入れをしません。
加熱すると、せっかくの繊細な香りが飛んでしまうから。
非加熱のまま瓶詰めして、パスタの仕上げにかけたり、
塩の代わりに使ったりする。「生で香りを楽しむ調味料」なんです。
なぜコラトゥーラは非加熱で大丈夫なのかというと、
塩分が高く、熟成期間も長いので、もともと傷みにくいから。
火入れの有無については、こちらで詳しくお話ししています。
木樽じゃなくても、いいんです
コラトゥーラというと、「栗の木樽で熟成」というイメージが強いですよね。
「じゃあ、木樽がないと本格的なものは作れないの?」
そう思うかもしれませんが——実は、そんなことはありません。
歴史が、それを証明しています。
古代ローマの最高級ガルムは、木樽ではなく、石を掘って作った槽(そう)で作られていました。
海辺に石の槽を掘り、そこで魚を熟成させていたんです。
つまり、木樽は「ひとつの選択肢」であって、必須条件ではない。
容器に本当に必要なのは、塩分や酸に耐えること、
雑菌が入りにくいこと、温度が安定すること。
これさえ満たせば、ガラスでも、陶器でも、琺瑯でも、本格的な魚醤は作れます。
木樽は、木の香りという「個性」を加えてくれる存在。
でも、クリアな魚醤を作るのに、絶対に必要なわけではないんです。
容器選びについては、こちらでも詳しく。
魚醤の系譜を、整理してみる
ここまでの話を、ひとつの「系譜」として整理してみましょう。
内臓を「除く」系——クリーンな引き算
✔ 古代ローマのムリア
✔ イタリアのコラトゥーラ・ディ・アリーチ
✔ スペインのフロール・デ・ガルム
特徴:臭みが少なく、上品。非加熱で、生で香りを楽しむ。
内臓を「活かす」系——濃厚な足し算
✔ 古代ローマのガルム
✔ 日本のしょっつる・いしる・いしり
✔ 東南アジアのナンプラー・ヌクマム
特徴:旨味が濃く、複雑。日本のものは火入れして、加熱調理に使う。
同じ「魚と塩」から生まれた調味料が、
「除く」か「活かす」かという、たったひとつの選択で、
これほど違う個性を持つ。
魚醤って、本当に面白いと思いませんか。
まとめ──一本の魚醤に、2000年の物語がある
✔ コラトゥーラの臭みのなさは「内臓・頭を除いている」から
古代ローマでは、これを「ムリア」と呼んで区別していました。
✔ 西は「引き算」(内臓を除いてクリーンに)、東は「足し算」(内臓を活かして濃厚に)
同じ魚と塩でも、設計思想が東西で逆なんです。
✔ 日本の魚醤は火入れする、コラトゥーラは非加熱。木樽は必須ではない
それぞれの個性は、歴史と風土が育んだもの。
魚醤は、ただの調味料ではありません。
一本一本に、その土地の知恵と、長い歴史が詰まっている。
そう知って味わうと、いつもの一滴が、ぐっと特別なものに感じられます。
次の記事では、実際に世界の魚醤を飲み比べます。
「引き算」のコラトゥーラと、「足し算」の日本の魚醤。
その違いを、舌で確かめると、この物語がもっと立体的になりますよ。
→世界の魚醤、飲み比べ。コラトゥーラから日本のいしるまで(近日公開予定)
→コラトゥーラを家で作る。カタクチイワシでつくる、澄んだ魚醤とアンチョビ(近日公開予定)
参考にした情報源
この記事の歴史・製法に関する情報は、以下を参考にまとめました。 古代の製法には諸説があるため、より詳しくは各情報源をご確認ください。
・ガルム (調味料) – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/ガルム_(調味料)
※コラトゥーラの製法(チェターラの伝統製法・PDO規格)、および日本の魚醤(いしる・いしり・しょっつる)の製法については、各産地・メーカーの公開情報を参考にしています。原材料や製法は変わることがあるため、購入の際は最新のラベル表示をご確認くださいこの記事の歴史・製法に関する情報は、以下を参考にまとめました。 古代の製法には諸説があるため、より詳しくは各情報源をご確認ください。
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