1年以上かけて発酵させ、3度漉して、ようやく完成した魚醤。
ここで、多くの人がぶつかる疑問があります。
「この魚醤、このまま使っていいの? それとも、火を入れるの?」
実はこれ、魚醤づくりの最後にして、とても大きな分かれ道なんです。
加熱するか、しないか。
たったそれだけのことで、味も、香りも、保存性も、そして安全性も変わってきます。
先に、わが家の結論をお伝えします。
すぐに使う分は、非加熱。
瓶に詰めて長く保存する分は、加熱。
この使い分けが、わが家の答えです。
なぜそうなるのか。
少し化学の話も出てきますが、知っておくと「自分はどっちを選ぶべきか」が、
はっきりわかるようになります。じっくりお話しさせてください。
この記事でわかること
✔ 加熱すると、魚醤に何が起きるのか
✔ 非加熱の魅力と、成立させるための「条件」
✔ わが家の、加熱・非加熱の使い分けと、加熱の方法
加熱は、「ひとつの操作で、いろんなことが同時に起きる」
まず知ってほしいのが、加熱という操作の特殊さです。
魚醤を加熱すると、たくさんの変化が、いっぺんに起こります。
主なものだけでも、これだけあります。
✔ 酵素のはたらきが止まる(発酵が止まり、味が固定される)
✔ 菌が死ぬ(保存性が上がる)
✔ タンパク質が固まる(濁りのもとが沈んで、漉しやすくなる)
✔ 香りの一部が飛ぶ(揮発性の香り成分が蒸発する)
✔ 色が濃くなる(メイラード反応で、香ばしさと色がつく)
✔ 脂が分離する(青身魚で顕著。冷やすと脂が固まって除ける)
✔ 嫌な匂いが飛ぶ(アンモニアなどの不快な成分が蒸散する)
ひとつの「加熱」という操作で、これだけのことが同時に起きる。
だから、加熱するかどうかは、これらすべてをまとめて引き受けるかどうかの選択なんです。
良いことも、ちょっと惜しいことも、一緒についてきます。
加熱のメリット──「味を固定し、長く保存できる」
加熱の一番の意味は、「発酵を止めて、その時点の味を固定する」ことです。
魚醤は、生きた酵素がタンパク質を旨味に変えることで作られます。
でも、この酵素は、放っておくと働き続けます。
熟成が進むにつれて、味はどんどん変化していく。
ここで加熱すると、酵素のはたらきがピタッと止まります。
「自分がいいと思った状態」で、味を閉じ込められるんです。
ただ、ここで正直にお伝えしておきたいことがあります。
「いつが、いちばん美味しい状態なのか」——実はこれ、簡単には決められません。
熟成は、進み方によって苦味が出たり、逆にさらに進むとまろやかになったり、
一筋縄ではいかない、奥の深い世界なんです。
「どれくらい熟成させて、いつ火を入れるか」については、
熟成の話とあわせて、別の記事でじっくりお話しします。
→魚醤はどれくらい熟成させる?収穫と火入れのタイミング(近日公開予定)
この記事では、まず「加熱という操作そのものが、何をするのか」を押さえておいてください。
加熱は、発酵を止めて、味の変化をストップさせる操作。
さらに、加熱で菌が死ぬので、常温でも長く保存できるようになります。
✔ 発酵が止まって、味の変化が止まる(その状態で固定される)
✔ 殺菌されて、保存性が上がる(常温保存・長期保存ができる)
✔ タンパク質が固まって沈むので、漉したときに澄んだ仕上がりになる
✔ 脂の多い青身魚は、加熱して冷やすと脂が固まって除ける(脂やけ対策)
加熱の目安は「80℃で20分」
では、どのくらい加熱すればいいのか。
わが家の目安は、80℃で20分です。
これには理由があります。
旨味の主役であるアミノ酸(グルタミン酸など)は、
80〜90℃くらいの加熱では、ほとんど壊れません。
一方で、80℃・20分ほど加熱すれば、菌の多くは死に、酵素も止まる。
つまり「旨味は守りつつ、しっかり殺菌して発酵を止める」ちょうどいいラインが、この80℃・20分なんです。
ぐらぐら煮立てる必要はありません。むしろ煮立てすぎると香りが飛びすぎてしまいます。
具体的な手順は、記事の後半でお伝えします。
非加熱のメリット──「生きた魚醤の、華やかさ」
では、加熱しない「非加熱」には、どんな良さがあるのでしょうか。
非加熱の魅力は、ひとことで言うと「生きている」こと。
✔ 華やかな香りが、すべて残る
加熱で飛んでしまう繊細な香り成分が、非加熱なら完全に残ります。発酵が生んだ、生き生きとした複雑な香り。これは非加熱だけの特権です。
✔ 酵素が生きていて、料理で活躍する
非加熱の魚醤には、タンパク質を分解する酵素が生きたまま。だから、肉や魚にかけると、塩麹のように素材を柔らかくする働きがあります。加熱した魚醤にはない機能です。
✔ 瓶の中で、熟成が続く
酵素が生きているので、瓶詰めしたあとも、ゆっくり熟成が進みます。開けるたびに少しずつ風味が変わる。ワインの瓶内熟成にも似た、「育てる楽しみ」があるんです。
仕上げにひとたらしして、香りを楽しむ。
そんな使い方には、非加熱がぴったりです。
でも、非加熱には「条件」がある(ここが大事)
ここまで読むと、「じゃあ非加熱のほうがいいじゃない」と思うかもしれません。
でも、ちょっと待ってください。
非加熱が安全に成立するには、守らなければならない条件があります。
ここが、この記事でいちばん大事なところです。
非加熱は、菌も酵素も生きたまま。
つまり、一歩間違えると、発酵が暴走したり、傷んだりするリスクがあるんです。
具体的には、こんなことが起こりえます。
✔ 産膜酵母が、瓶の中で再び増える
✔ 発酵が進んで、味が予期せず変化してしまう
✔ 殺菌されていないので、傷みやすい
これを防ぐために、非加熱には4つの条件があります。
非加熱を安全に成立させる、4つの条件
① 塩分が、しっかり高いこと(塩分20%以上が目安)
塩が高いほど、菌は活動できません。塩分が低い非加熱は、危険です。
② 冷蔵保存すること(5℃以下)
低温で、酵素と菌のはたらきを抑えます。常温保存の非加熱は、おすすめできません。
③ 短期間で使い切ること
長期保存は前提にしない。「作って数ヶ月で使い切る」つもりで。
④ しっかり漉してあること
固形物や産膜酵母を、できるだけ物理的に取り除いてから瓶に詰める。
この4つが揃って、はじめて非加熱は安全に成立します。
逆に言えば、どれか一つでも欠けるなら、加熱を選んでください。
「常温で長く置きたい」「塩分は控えめにしたい」——
そういう場合は、迷わず加熱です。安全がいちばん大事ですから。
非加熱を「密封」するのは、危険です
もうひとつ、安全に関わる大切な話を。
「非加熱の魚醤を、瓶にぎゅっと密封して保存したい」
そう思うかもしれませんが、これは危険です。
理由は、非加熱の魚醤は発酵が続いていて、ガスが出るから。
生きた酵素や菌が活動すると、少しずつガスが発生します。
これを完全に密封した瓶に詰めると、逃げ場のないガスで、瓶の中の圧力が上がっていく。
最悪の場合、栓が飛んだり、中身が噴き出したり、瓶が割れることもあります。
(味噌を密閉容器に詰めると、蓋が膨らむのと同じ理屈です)
だから、密封して保存したいなら、加熱して発酵を止めてから。
非加熱のものは、密封せず、冷蔵で、早めに使い切る。
これが、安全な使い分けです。
瓶詰めの詳しい方法は、道具シリーズの保管編でお話しします。
→魚醤の道具・保管編(近日公開予定)
世界の魚醤は、加熱?非加熱?
実は、世界の魚醤を見渡すと、加熱するものと、しないものの両方があります。
加熱する魚醤:秋田のしょっつるなど
日本の伝統的な魚醤の多くは、仕上げに火入れ(加熱)をします。
秋田のしょっつるも、伝統的に加熱の工程を経て、味を整え、保存性を高めてきました。
火入れは、日本の発酵調味料(醤油など)に共通する、理にかなった知恵なんです。
非加熱で瓶詰めする魚醤:イタリアのコラトゥーラ
一方、加熱せずに瓶詰めされる魚醤もあります。
その代表が、イタリアのコラトゥーラ・ディ・アリーチ。
イタリア・チェターラという小さな漁村の伝統的な魚醤で、
カタクチイワシの頭と内臓を取り、塩漬けにして、栗材の樽で約3年熟成させます。
樽の底に穴を開け、にじみ出た液体を一滴ずつ抜き取って、そのまま瓶詰めする。
原材料は、塩漬けカタクチイワシのエキスと海塩だけ。加熱殺菌の工程はありません。
古代ローマの魚醤「ガルム」の末裔とも言われる、由緒ある魚醤です。
ではなぜ、コラトゥーラは非加熱で瓶詰めできるのか。
答えは、塩分がとても高く、熟成期間も長いから。
さきほどお話しした「非加熱の条件」を、伝統製法そのものが満たしているんです。
高い塩分が、瓶詰めしたあとも菌の活動を抑えている。だから非加熱でも成立する。
(出典:Great Italian Chefs、Gustiamo、Wikipedia ほか)
逆に言えば、塩分がそこまで高くない家庭の魚醤を、コラトゥーラと同じ感覚で非加熱・常温保存するのは危険ということ。
同じ「非加熱」でも、条件が違えば結果は変わります。ここは、しっかり区別してくださいね。
わが家の使い分け
ここまでをまとめると、わが家の使い分けはこうなります。
✔ すぐに使う分 → 非加熱
冷蔵庫で保存して、数ヶ月で使い切る。華やかな香りと、生きた酵素を楽しむ。
✔ 瓶に詰めて長く保存する分 → 加熱(80℃・20分)
発酵を止めて味を固定し、常温で長期保存できるようにする。
おすすめは、同じ仕込みを、半分ずつ分けること。
半分は非加熱で冷蔵し、仕上げ用に。
もう半分は加熱して瓶詰めし、普段使いの万能調味料に。
一度の仕込みから、性格の違う2本の魚醤が手に入るんです。これがなかなか、楽しい。
魚醤を加熱する方法(基本のレシピ)
では、実際の加熱(火入れ)の手順です。
基本はとてもシンプル。80℃で20分、これだけ覚えておけば大丈夫です。
用意するもの
✔ 漉した魚醤
✔ 鍋(ホーローやステンレスがおすすめ。匂い移りしにくい)
✔ 温度計(あると安心。なくても弱火でコントロール可)
✔ アクをすくうお玉やスプーン
手順
① 鍋に魚醤を入れ、弱火にかける
いきなり強火にせず、じっくり温度を上げます。
<!– 【写真②:鍋に漉した魚醤を入れた、加熱前の状態。色がわかるように】 –>
② 80℃を保ちながら、20分
ぐらぐら煮立てないこと。表面がゆらゆらするくらい(80℃前後)をキープします。
煮立てると、せっかくの香りが飛びすぎてしまいます。
温度計があれば80℃を、なければ「沸騰直前の、静かな状態」を保ってください。
③ アクが出たら、すくい取る
加熱すると、タンパク質などが固まって、アクや澱(おり)が浮いてきます。
これをていねいにすくい取ると、雑味のないクリアな仕上がりになります。
<!– 【写真③:加熱中、表面にアクや澱が浮いてきた様子。これが「加熱で何が起きるか」を視覚的に伝える重要なカット】 –>
④ 火を止めて、冷ます
20分加熱したら火を止めて、粗熱を取ります。
冷める間に、残ったタンパク質がさらに沈殿します。
⑤ もう一度漉して、瓶に詰める
沈んだ澱を残すように、上澄みを静かに漉します。
加熱前と比べて、色が少し濃く、香ばしい香りに変わっているのがわかるはずです。
<!– 【写真④:加熱後の澄んだ魚醤。できれば加熱前(写真②)と並べて、色の違いがわかるように】 –> <!– 【写真⑤:加熱して漉した魚醤を、清潔な瓶に詰めた完成状態】 –>
これで、常温でも長く保存できる、安定した魚醤の完成です。
魚種によって、火入れのコツは少し変わります
ここでご紹介したのは、どの魚にも使える「基本の火入れ」です。
実は、魚の種類によって、火入れのちょっとしたコツが変わってきます。
たとえば、繊細な香りを残したい白身魚、脂やけ対策が必要な青身魚、
安全をより重視したいアラ(頭や骨)——それぞれに、向いたやり方があるんです。
この魚種ごとの詳しい火入れの方法は、別の記事でまとめてお話しします。
→魚種別・魚醤の火入れのコツ(白身魚・青身魚・アラ)(近日公開予定)
まずは今回の「80℃・20分」を基本として覚えておけば、どんな魚でも大丈夫です。
「一番魚醤」「二番魚醤」という、もうひとつの話
加熱の話をしていると、実はもうひとつ、奥深いテーマにつながります。
漉したあとの「出がらし」に、塩水を足して、もう一度旨味を抽出する——
「二番魚醤」という考え方です。
ベトナムのヌクマムでは、一番搾り・二番搾り・三番搾りと、
段階的に抽出して、グレード分けする伝統があります。
一番搾りは旨味が濃くて高級、二番・三番は普段使い、という具合に。
この「魚醤のグレード」の話は、とても面白いテーマなので、
別の記事で、じっくりお話ししたいと思います。
→一番魚醤・二番魚醤って?魚醤のグレードと多段抽出のはなし(近日公開予定)
まとめ──加熱・非加熱は、目的で選ぶ
✔ 加熱(80℃・20分)は、発酵を止めて味を固定し、長期保存を可能にする
旨味を守りつつ殺菌・酵素停止ができる、ちょうどいいラインが80℃・20分です。
✔ 非加熱は、華やかな香りと生きた酵素が魅力。でも条件がある
「高塩分20%以上・冷蔵・短期使い切り・徹底濾過」。この4つが揃わないなら、加熱を。
✔ 非加熱の密封は危険。発酵ガスで瓶の圧力が上がる
密封保存したいなら、加熱して発酵を止めてから。
✔ わが家は、すぐ使う分は非加熱、瓶詰め保存は加熱。半分ずつ分けるのもおすすめ
加熱するか、しないか。
それは「どちらが正しい」という話ではなく、「どう使いたいか」で選ぶものです。
ただし、ひとつだけ譲れないのは、安全。
非加熱が安全に成立しないなら、迷わず加熱を選んでください。
1年かけて育てた魚醤を、安心して、おいしく使い切るために。
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